2017年01月01日

[レビュー]花は桜木 人は武士


2017年書き初めレビューです。新しい年の幕開けにこれ程ふさわしい作品があろうか!
さて、それでは参りましょう。

花は桜木 人は武士飛石企画様)
 ジャンル:戦国時代系乙女ゲーム
 制作ツール:吉里吉里2/KAG3
 攻略対象:2人(本多忠勝・榊原康政)
 ED数:4つ (うち1つは見る必要のないBADエンド)
   ※3つのEDを見るとちょっとしたおまけが出ます
 プレイ時間(体感):コンプリまで3〜4時間くらい?
 プレイに至った経緯:
  製作者の塩満様がcrAsm作品のご感想をくださった(感謝!!!)のを機に知りました

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《ストーリー》(製作サイト様より引用)
時は戦国時代、三河の地に生まれた言(コト)はひょんなことから戦場へ赴くことに。
地獄のような戦場で出会った本多忠勝に感銘を受け自ら武士の道を選ぶ。

言わずとも知れた天下人である徳川家康を支えた若き武将達と
彼らを追いかける一人の少女の物語。

《レビュー》
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■はじめに
とにかく、すっごく笑えました!しょーもないおやじギャグとか
忠勝のオラオラっぷりとか、たまにヌケてるとことか…
もう、いちいち語ってられないほど!ほっぺた痛い!
でも悩んだり弱ったりする場面も描写がしっかりしてます。
そしてなかなかに甘いシーンもあったり!と。
あ、いずれも作風を損なわない範囲なのでその辺はご心配なくです。

当初、歴史の知識が中学生レベルの倉下でも少々ついていけるかどうか
気がかりでもありましたが、まずは初見でスタートしました。
作中の人物名でわかったのは織田、徳川、武田、今川くらいでしょうか。
でも、歴史に詳しくなくても問題なくゲームを楽しめました!
主人公の言もあまり世間を知らない(失礼;)ので登場人物たちが
説明してくれますし、登場人物も数人ですのですぐに覚えられます。
キーワードが色文字になってるのも地味に有り難いです。
そんなに一所懸命沢山の単語を覚えようとしなくても話についていけます。

作風も、真剣なシーンもありますが基本的には重苦しくなくライトです。
迷ってる方は是非お手に取って頂きたいです。間違いなく楽しめます!

■構成
この作品は4話構成になっています。
  1話:三河一向一揆
  2話:遠江侵攻
  3話:姉川の戦い
  4話:三方ヶ原の戦い

メインメニューより、各話から読み始めることができます。
好感度変数は無く、選択肢による分岐のみですので
リプレイ時も各話から読んでしまって大丈夫です。
忠勝について行ってみたり康政についていってみたりしてください。
倉下は気分的に各ルート頭からプレイしてました。

■システム・サウンド
さすが吉里吉里製、抜群の安定感。文句なしです。
突撃時に画面がガタガタゆれたりするのが迫力あっていいです!
エフェクトの使い方がうまい。あとさりげなく音楽の入れ方・止め方も◎
音楽の選定も良いです。メインテーマはこの作品用に特注したもののようで、
とても作品の雰囲気にピッタリです。しかも壮大。
メインテーマだけでも他作品と被らないものが使えると安心ですよね。

■グラフィック
全画面のスチルと、筆の跡のような感じの小さいスチル
(右側のスクショのような)の2種類があります。結構頻繁に入る印象です。
イラストのクオリティも満足です、すごく綺麗。
鎧とかよく描けるなぁ…と見てて思います。

■シナリオ・キャラクタ
ひょんなことから戦場に赴くことになった主人公の言。
メインメニューで槍を構えてるのがカッコいい!作中でもぐんぐん成長します。
しっかし…言にストーカーの如く付いてまわる涼次郎とやらは
何とかならんのかw「うわ、出た!」と言の如く苛々してました(笑
攻略対象の「本多忠勝」と「榊原康政」は
前者がパワー系?、後者が頭脳系でとても良いコンビでした。
誰がお気に入りというより、彼らコンビ或いは言と3人で
仲良くしてるのを見てるのがいいなぁと思いましたね。
余談ですが言は割と忠勝寄りなところがある?(笑

戦闘の臨場感もよく出てます。描写が具体的です。
戦略や布陣は(後で調べて知りましたが)史実に基いていたりもして
リアリティがあり、なかなかワクワクさせられます。

史実が元にはなっていますが、忠実な再現というわけではないようです
(そもそも会話一字一句残されてるわけないですしね)。
あと歴史がひっくり返ったりすることもないのでその辺はご安心ください。

今後スチル集と後日談が実装されるようなので
その辺はおっちゃんこして気ままに待ちましょう(´∀`*

(17/3/28)追加パッチ配布開始されました!

■ネタバレを含む感想(↓反転↓)
「策があるかもしれない、柵だけに」とか言っちゃうし
槍折っちゃうし(スチルあるし)、「亀(?)」とか「駿馬亀丸」とか
忠勝が「屋敷の場所教えてない」辺りとか…いやー楽しい楽しい!

それから、印象的だったのは「言の弱さ」ですね。
康政にあの手この手で問いただされるまで初首級の話ができなかった言。
いいですね、人間らしい。
理屈ではわかってて物語には書けても、リアルに生きている中では
弱さに負けて理想通りの言動ができないことも多いはずです。
稲盛和夫も言うとおり「人間は弱いもの」なんですよ、実際には。

作品の中でキャラクタを自由に動かせるならカッコよくキメてしまいがちだけど
そこをそうしないで描き続けていたというのが良かったです!
(そして自分で言ってて胸が痛む…w)。

言の生い立ちは家康のそれと重なるところがあるようですが
そんなところもまた面白いです。

あと、乙女ゲーというと大抵、選択肢で
攻略対象についていく選択をするのが正解だったりしますが
今作「忠勝を信じる」で忠勝EDに入るのも良いですね。
そういう、根性論でなくロジカルに考えていくスタンス好きです。

また、史実との関連について。
調べると予想以上に史実をモデルにした描写が多いようでした。
各戦いは勿論、忠勝の初首級、康政の大怪我など。
1から作る場合に比べ、バックボーンがあることで物語の深みが増します
(ちょっと艦これやってた頃を思い出すなぁ)。

忠勝にとって叔父は育ての親だったようで、そんな存在を失っての
あの接吻シーンと考えると、またいくらか印象が違います。

因みに、1話の忠勝との再会時には皆16歳ですが
史実に基づけばEDの時点では+9歳くらいになっているようで。
言の上達っぷり(や、忠勝や康政の功績)を見てると
一応史実通り年を重ねている設定なのでしょうか?
その辺は時代物ならではの時間の経過の仕方かもですね。

そして。
最後の最後にあとがきでとどめ刺されました!
あれはおもろすぎます!あと製作者として大いに共感できました。

(↑ここまで↑)

素敵な作品のご提供に感謝いたします。

製作サイト様:




■追記
史実や作中の各単語、地理などを知らなくても十分楽しめますが、
それらを知ると一層楽しめます。
久しぶりに歴史の勉強しました、脳みそにいい刺激になりました。
作品をプレイしてから調べるとすごく内容が頭に入りやすいです。

以下、倉下が調べた際のメモです。気になる方は「続きを読む」よりどうぞ。




■メモ■
3周目のプレイ時に調べた史実などです。


[[単語]]

・地理
近江(滋賀)・尾張(愛知の西側)・三河(愛知の東側)・
遠江(静岡の西側)・甲斐(山梨)
「戦国時代 勢力図」でググるとわかりやすいです。

・各章のサブタイトルの意味 (情報元:故事ことわざ辞典、コトバンク)
1.鹿を追う者は山を見ず
 一つのことに夢中になって、他のことに余裕がなくなること。
2.斃れて後已む(たおれてのちやむ)
 死ぬまで一生懸命努力して、途中でやめることをしない。
3.氷に鏤(ちりば)め水に描く
 〔氷に彫刻をしてもすぐに溶けたり、水に絵を描こうとしても流れてしまうことから〕
 無駄な努力をすることのたとえ。
4.我が物と思えば軽し笠の雪
 苦しいことも、辛いことも、自分のためだと思えば気にならないことのたとえ。


[[関連史実]](ウィキペディアより抜粋+α)
ざっくり言うと、「花は桜木 人は武士」は
1560年:桶狭間の戦い(○ 織田 vs 今川 ×)

1575年:長篠の戦い(○ 織田・徳川 vs 武田 ×)
の間の史実をモデルとしたお話とみられます。

【徳川 家康】
徳川 家康 または、松平 元康
家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。
諱(いみな)は今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)、次いで元康を名乗るが、今川氏からの独立後、家康と改めた。

[概要]
幼少期を織田氏、ついで今川氏の下で人質として過ごす。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでの今川義元の戦死を期に今川氏から独立し、織田信長と同盟を結び、三河国・遠江国に版図を広げる。

[詳細]
・天文11年(1542年)岡崎城(愛知県)で生まれる。
・(永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでの今川義元の戦死を期に今川氏から独立)
・永禄6年(1563年)元康→家康と改名。
・永禄9年(1566年)「徳川」に改姓。

・遠江今川領への侵攻
永禄11年(1568年)、信長が上洛(京都に行くこと)の途につくと、
家康も信長へ援軍を派遣。
同年12月6日、甲斐国の武田信玄が駿河今川領への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、
家康は武田氏と同盟を結び、13日、遠江国の今川領へ侵攻し曳馬城を攻め落とし、
軍を退かずに遠江国で越年する。

武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、
西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされる(『三河物語』)。

しかし永禄12年(1569年)1月8日、信濃国から武田家臣・秋山虎繁(信友)による
遠江国への侵攻を受け、武田氏とは手切となった。

5月に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置く(遠江侵攻)。
氏真と和睦すると家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けた。
以来、東海地方における織田・徳川・武田の関係は、
織田と他2者は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移する。

元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。今川氏真も浜松城に迎え庇護する。
また、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。

・武田氏との戦い
武田氏は元亀2年(1571年)末に駿河今川領を確保。
信長と反目した将軍・足利義昭が武田信玄、朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を糾合して信長包囲網を企てた際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持した。

元亀3年(1572年)10月には武田氏が徳川領である遠江国・三河国への侵攻(西上作戦)を開始した。 家康は信長に援軍を要請するが十分な援軍は送られず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなる。

徳川軍は一言坂で敗走(一言坂の戦い)。
また、12月、浜松の北方を固める要衝・二俣城が落城(二俣城の戦い)。

ようやく信長から援軍が送られてきたころ、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づきつつあった。
対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、周囲が籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。しかしその結果、1,000人以上の死傷者を出し、徳川・織田連合軍は惨敗。
家康は夏目吉信に代表されるように、身代わりとなった家臣に助けられて命からがら浜松城に逃げ帰ったという。武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してからの家康は冷静さを取り戻し「空城計」(戦術の1つ)を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされている。(三方ヶ原の戦い)

2月に武田軍によって三河国の野田城を落とされた。ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。

武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため家康はいくつかの武田領を攻めるが武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信。


【本多 忠勝】
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。

・天文17年(1548年)、安祥松平家(徳川本家)の最古参の安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男として、三河国で生まれた。翌年、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育った。

・13歳の時に初陣、同時に元服。初首は14歳の時(1562年?)で、鳥屋根城攻めで忠真の部隊に属し、この時忠真が槍で敵兵を刺しながら忠勝を招き、「この首を取って戦功にしろ」と言ったが、忠勝は「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」と言って自ら敵陣に駆け入り敵の首を挙げたので、忠真をはじめとする諸将は忠勝を只者ではないと感じ入った。
(※元服:男子の成人を示すものとして行われる儀式(通過儀礼の一つ)。
 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。)

・今川義元が敗死し、家康が今川家から独立し、織田信長との清洲同盟締結後、忠勝は上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどに参戦した。
・永禄6年(1563年)9月の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた。

・永禄9年(1566年)には19歳にして旗本先手役に抜擢されて、与力54騎を付属される。
以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍した。

・元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩した。この戦いにおいて忠勝は朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せた。

・元亀3年(1572年)の二俣城の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いでは偵察隊として先行し、武田本軍と遭遇。報告するために撤退するが、武田軍に追撃され、奮戦し、家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させた。この時に忠勝が着ていたのが鹿角の兜に黒糸威の鎧であった。
同年12月の三方ヶ原の戦いでは左翼を担う。また犀ヶ崖に陣取った武田軍に夜襲をかけ、武田軍を大混乱に陥らせて、多数の死傷者を出させる武功を挙げる。

・天正元年(1573年)の長篠城攻めでは9月に堀越で榊原康政等と共に武田軍を破り、獲得した長篠城に入り、城を守っている。

・兜は「鹿角脇立兜」。鹿の角をあしらった脇立は何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固めたもの。
・鎧は当世具足「黒糸威胴丸具足」。
・自らが葬った敵を弔うため、肩から大数珠をさげるのが常であったといわれる。
・動きやすさを重視し軽装を好んだという。
・「唐の頭」は当時徳川家中で流行っていた兜などにつけるヤクの尾毛の飾り物を指す
・榊原康政とは同年齢ということもあり、仲が良く親友同士だった。


【榊原 康政】
・徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。

・天文17年(1548年)、三河国に生まれる。
幼い頃から勉学を好み、書を読んで、字も大変上手かったという。
13歳の時、松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。
三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。

・永禄9年(1566年)、19歳で元服。同年齢の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍。

(別の情報元より、1568年遠洲・堀川城攻めで深手を追って虫の息となり家康に「後事に思うことがあればなんなりと申せ」とまで言われたが奇跡的に回復した、とある。)

・元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。

・元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは家康撤退時に康政は浜松城に入らず、昼間のうちに浜松城に入れなかった味方兵を呼び集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、動揺し逃げ惑う武田軍を瓦解させてから浜松城に入ったという。

・天正3年(1575年)の長篠の戦いでは決死の覚悟で徳川本陣に突撃してくる内藤昌豊を本多忠勝と共に戦って家康を守ったという。


【その他】
・織田信長
 天文3年(1534年)、勝幡城(愛知県)で生まれる。
 豊臣秀吉を「サル」だか「はげねずみ」だかと呼んでいたらしい?
・武田信玄:甲斐(山梨県)の大名

・姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどについては各々の戦の名前で調べると
 わかりやすいです。



posted by 倉下 遼 at 18:20 | Comment(0) | 他作品
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